「未分類」の記事一覧
松下幸之助生誕120周年メモリアルパネル展
紀伊上臈ホトトギスが咲いています(10月23日現在)
9月28日(日)第1回台湾 中国語講座「台湾の文化と言葉」
第1回台湾・中国語講座 「台湾の文化と言葉」
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台湾観光客が和歌山を好きになってまた来てもらえるように、
台湾で実際に使っている言葉や行動など、台湾文化を交えた内容となっています。
また台湾出身者や留学生にもお手伝いをお願いし、本物の発音を身近に学んでいただけます。
講師:後藤秋美先生(星林高等学校中国語教師)
日時:9月28日(日)15:00~17:00
場所:河北コミュニティセンター
※定員に達しましたので、申し込みを締め切りました。
次回は11月を予定しております。
和歌山DC特別企画!期間限定『わかやまご当地キャラぽん』
平成26年9月14日(日)よりはじまった和歌山ディスティネーションキャンペーンにあわせ、
和歌山ご当地のゆるキャラのピンバッチがランダムで当たる、
期間限定「わかやまご当地キャラぽん」が設置されました!
▼観光土産品センター前▼
和歌山市内では観光土産品センター及び黒潮市場に設置されています。
「吉宗くん、まごりん、きいちゃん、わかぱん」が購入できます♪
詳しくはコチラへ>>>http://www.wakayamadc.jp/character.php
フェリーでらくらく!魅惑の和歌山・高野山♪行っ得キャンペーン
※受付終了※ 平成26年10月4日(土) 観光ガイドと歩く友ヶ島ウォーク
8月9日(土)放送 『ウィークエンド関西』番組内で和歌浦が紹介されます
8月9日(土)放送「ウィークエンド関西」の番組内で、和歌浦が紹介されます!
「西日本の旅」コーナー内での放送で、約10分間を予定しております。
ぜひご覧ください♪
<放送日時>
2014年8月9日(土) 7:30~8:00 (近畿地方での放送)
NHK『ウィークエンド関西』 西日本の旅/万葉の海に心をよせて
平成26年8月1日秋葉山公園に「秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡」の説明版が設置されました。
4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>
秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡
織田信長の一代記『信長公記』によると、元亀元年(1570)以来、大坂本願寺を支え続けた雑賀衆は、信長軍の来攻を免れなかった。天正5年(1577)2月22日、信長は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重らの勇将を引き連れ、雑賀衆の立て籠る秋葉山を攻めた。この山は、海抜73メートルの小山であるが、三方を山々に囲まれ、唯一開けた東側には水量豊かな和歌川が流れる要害であった。雑賀衆は、岸に柵をめぐらし、水中に桶壷を埋めて敵に備えた。寄せ手の先陣、堀秀政の騎馬隊は、勢よく河に乗り入れたが、足を取られて身動きならず、待ち受けた鉄砲隊に狙い撃ちされ、多くの武者を失って退却した。その後の合戦は必ずしも雑賀衆に有利ではなかったが、京都の政情不安もあり、信長は3月21日に雑賀の陣を引き払い安土城に帰った。これを聞いた雑賀衆は、合戦の矢玉に傷ついた足の痛みも忘れて喜び踊ったのが、雑賀踊りの起源だという。今も紀州東照宮の和歌祭の演目として伝えられている。
平成26年8月1日秋葉山公園に「秋葉山の碑」の説明版が設置されました。
4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>
秋葉山の碑
秋葉山の登り口には、①「顕如上人(けんにょしょうにん)臨跡」の碑と、②「弥勒寺山(みろくじさん)」の碑が立っている。紀州における本願寺派の御坊は、文明8年 (1476)に海南市冷水に開創され、永正4年(1507)海南市黒江に移り、天文19年(1550)にはさらにこの山に移ったが、永禄6年(1563)顕如がこの地に来り和歌山市鷺森に移転を命じた。①の碑はこの経過を記念して本願寺が建てたものである。その後もこの山は本願寺の持ち山として「御坊山」と呼ばれたが、昭和13年(1938)和歌山市が南の谷2.7ヘクタールを譲り受けて公園を開設し、同25年(1950)にはさらに北の峰6.6ヘクタールを譲り受けて施設を充実した。この山を「秋葉山」と呼ぶのは、寛政5年(1793)羅漢寺(らかんじ)の僧が静岡県から秋葉権現を勧請し、山麓に堂を建てたからであるが、古くは「弥勒寺山」と呼ばれ、それは昔この山にあった天台宗の古寺の名に基づくという。②の碑は公園を開設するに当り和歌山市が歴史的古称を顕彰したものである。
平成26年8月1日秋葉山公園に「顕如上人桌錫所の碑」の説明版が設置されました。
4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>
顕如上人(けんにょしょうにん)桌錫所(たくしゃくしょ)の碑
緑色片岩の高さ約3メートルの碑。篆(てん)書体で「顕如上人桌錫所」と刻む。顕如上人は本願寺第11世門主、錫は僧侶の持つ錫杖、桌(卓の異体字)は突立てるの意で、総じて顕如がこの地に来り、足跡を印したことを意味するであろう。顕如は元亀元年(1570)以来、織田信長を相手に11年に及ぶ本願寺合戦を戦った人物であるが、天正8年(1580)4月、正親町天皇の勅命和議をうけ入れ、大坂本願寺を退去し、寺基を紀州の鷺森(和歌山市)に移し、以後3年間当地に滞在した。『大谷本願寺通紀』によると、永禄6年(1563)2月、顕如は和泉を経て紀州に来り、この山にあった御坊を鷺森に移したとあり、紀州御坊の鷺森移転に当って彼がこの地を訪れたことは確かである。この碑は明治24年(1891)に顕如の300回忌に当り、11年にわたる本願寺合戦を平和裡に収拾し、教団の安泰をはかった彼の功績をたたえて当地の門徒たちが建立したものであろう。