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「2014年08月」の記事一覧

速報!! 8月2日(土)開催の紀州おどり「ぶんだら節」と紀州よさこい祭「おどるんや」について

8月2日(土)開催の


紀州おどり「ぶんだら節」と


紀州よさこい祭「おどるんや」について



本日開催予定でした紀州おどり「ぶんだら節」と

紀州よさこい祭「おどるんや」ですが、

残念ながら荒天の為、中止となりました。

楽しみにされていた皆様、申し訳ございません。

8月2日(土)開催予定の紀州おどり「ぶんだら節」と紀州よさこい祭り「おどるんや」について

8月2日(土)開催予定の


紀州おどり「ぶんだら節」と


紀州よさこい祭り「おどるんや」について


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※10時45分現在の情報です。


紀州よさこい祭り「おどるんや」のJR和歌山駅前の演舞場は

雨天の為、中止となりました。

紀州おどり「ぶんだら節」と紀州よさこい祭り「おどるんや」の

本町通り・けやき大通り演舞場につきましては、

本日午後2時に態度決定いたします。

7月27日(日) 第62回港まつり花火大会が行われました!!

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7月27日(日)、和歌山港中ふ頭万トンバースで

第62回港まつり花火大会が行われましたhappy01.gif

色とりどりの花火が和歌山市の夜空を彩り、

大勢の観客を魅了しましたconfident.gif

平成26年8月1日秋葉山公園に「秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡」の説明版が設置されました。

4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>

秋葉山古戦場(雑賀合戦)の跡

織田信長の一代記『信長公記』によると、元亀元年(1570)以来、大坂本願寺を支え続けた雑賀衆は、信長軍の来攻を免れなかった。天正5年(1577)2月22日、信長は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重らの勇将を引き連れ、雑賀衆の立て籠る秋葉山を攻めた。この山は、海抜73メートルの小山であるが、三方を山々に囲まれ、唯一開けた東側には水量豊かな和歌川が流れる要害であった。雑賀衆は、岸に柵をめぐらし、水中に桶壷を埋めて敵に備えた。寄せ手の先陣、堀秀政の騎馬隊は、勢よく河に乗り入れたが、足を取られて身動きならず、待ち受けた鉄砲隊に狙い撃ちされ、多くの武者を失って退却した。その後の合戦は必ずしも雑賀衆に有利ではなかったが、京都の政情不安もあり、信長は3月21日に雑賀の陣を引き払い安土城に帰った。これを聞いた雑賀衆は、合戦の矢玉に傷ついた足の痛みも忘れて喜び踊ったのが、雑賀踊りの起源だという。今も紀州東照宮の和歌祭の演目として伝えられている。

平成26年8月1日秋葉山公園に「秋葉山の碑」の説明版が設置されました。

4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>

秋葉山の碑

秋葉山の登り口には、①「顕如上人(けんにょしょうにん)臨跡」の碑と、②「弥勒寺山(みろくじさん)」の碑が立っている。紀州における本願寺派の御坊は、文明8年 (1476)に海南市冷水に開創され、永正4年(1507)海南市黒江に移り、天文19年(1550)にはさらにこの山に移ったが、永禄6年(1563)顕如がこの地に来り和歌山市鷺森に移転を命じた。①の碑はこの経過を記念して本願寺が建てたものである。その後もこの山は本願寺の持ち山として「御坊山」と呼ばれたが、昭和13年(1938)和歌山市が南の谷2.7ヘクタールを譲り受けて公園を開設し、同25年(1950)にはさらに北の峰6.6ヘクタールを譲り受けて施設を充実した。この山を「秋葉山」と呼ぶのは、寛政5年(1793)羅漢寺(らかんじ)の僧が静岡県から秋葉権現を勧請し、山麓に堂を建てたからであるが、古くは「弥勒寺山」と呼ばれ、それは昔この山にあった天台宗の古寺の名に基づくという。②の碑は公園を開設するに当り和歌山市が歴史的古称を顕彰したものである。

平成26年8月1日秋葉山公園に「顕如上人桌錫所の碑」の説明版が設置されました。

4ヶ国語に翻訳した文面もございます>>>

顕如上人(けんにょしょうにん)桌錫所(たくしゃくしょ)の碑

緑色片岩の高さ約3メートルの碑。篆(てん)書体で「顕如上人桌錫所」と刻む。顕如上人は本願寺第11世門主、錫は僧侶の持つ錫杖、桌(卓の異体字)は突立てるの意で、総じて顕如がこの地に来り、足跡を印したことを意味するであろう。顕如は元亀元年(1570)以来、織田信長を相手に11年に及ぶ本願寺合戦を戦った人物であるが、天正8年(1580)4月、正親町天皇の勅命和議をうけ入れ、大坂本願寺を退去し、寺基を紀州の鷺森(和歌山市)に移し、以後3年間当地に滞在した。『大谷本願寺通紀』によると、永禄6年(1563)2月、顕如は和泉を経て紀州に来り、この山にあった御坊を鷺森に移したとあり、紀州御坊の鷺森移転に当って彼がこの地を訪れたことは確かである。この碑は明治24年(1891)に顕如の300回忌に当り、11年にわたる本願寺合戦を平和裡に収拾し、教団の安泰をはかった彼の功績をたたえて当地の門徒たちが建立したものであろう。

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